村上大祭 第2回。荒馬14騎と笠鉾、庄内町が先導する行列
村上大祭の行列を先導する庄内町笠鉾と荒馬14騎。本庄繁長の凱旋を模した荒馬と、文化庁が伝える4基の笠鉾を、公式の案内に沿って紹介します。
見るまつり 提供なし(自主取材)
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村上大祭の行列で、屋台の前を歩く姿が目を引きます。**先太鼓に続き、庄内町[しょうないまち]の笠鉾[かさぼこ]と荒馬14騎が、おしゃぎり(屋台)を先導します。**文化庁の解説では、神輿の巡行に合わせて19基の屋台、14騎の荒馬、4基の笠鉾などが旧城下を巡行する、とあります。第1回で概要を見た祭りを、行列の先頭から見ていきます。
行列のなかの位置
市の由来では、祭の行列は先太鼓・庄内町笠鉾・荒馬14騎・社名旗・四神旗・五色旗・神職・神輿三基・神馬・各町しゃぎり19台と続く構成だった、と紹介されています。観光協会と公式ホームページも、おしゃぎり19台を先導するのが先太鼓・庄内町笠鉾・荒馬14騎だ、と書いています。
宵祭(7月6日)は各町が屋台や笠鉾を組み立てて自町内を巡行し、本祭(7月7日)は早朝に屋台・荒馬・笠鉾が神社前に集まったあと、旧城下を夕方まで巡行する、と文化庁は解説しています。夕方に神輿が還御すると、荒馬、笠鉾、屋台も自町内へ戻ります。掲載時点の案内です。
荒馬14騎
荒馬は、戦国時代の村上城主・本庄繁長[ほんじょう-しげなが]が庄内での戦いに勝ち、羽黒山の分霊を奉じて凱旋した様子を模したもの、と市の由来・観光協会・公式ホームページは伝えています。公式ホームページと観光協会は、その年を天正16(1588)年としています。はじめ羽黒大権現を祀った地が庄内町で、そこから神社が始まった、という由来にも触れられています。
担い手は庄内町の学童です。観光協会の案内では、乗り子になった学童が武士の火事装束[かじしょうぞく](観光協会の注では、火災の消火や避難の際に着用した専用の衣服・防具)を身にまとい、漆塗りの木製の荒馬を肩からつり下げて行進する、とあります。公式ホームページも、荒馬は木製で堆朱[ついしゅ]を施してある、と書いています。市の見どころ紹介では、「イヤハイッ!」の掛け声で行進する庄内町の荒馬、と紹介されています。轡[くつわ]を鳴らして進む姿も、観光協会・公式が伝える城下町の祭りの光景です。
荒馬がいつから始まったかは定かではない、と観光協会・公式は記しています。一方で、松平直矩[まつだいら-なおのり]自筆の寛文7(1667)年の日記に「荒馬乗・庄内町」とある、とも書いています。観光協会の特集では、後背部に戦国武将の旗差物馬標[はたさしもの・うまじるし]が飾られ、縁起担ぎや火伏の願いを込めたモチーフが取り入れられている、と紹介されています。
笠鉾と、祭りの流れ
笠鉾は、文化庁の解説で4基と数えられています。市の由来や観光協会・公式が行列の先頭に挙げるのは、庄内町笠鉾です。宵祭では各町が屋台や笠鉾を組み立てて自町内を巡る、とも文化庁は書いています。数と先頭の役どころは、出典ごとに焦点が違うので、ここでは文化庁の「4基」と、市・観光協会・公式が伝える「庄内町笠鉾」の両方を残します。
市の見どころ紹介では、三基の神輿に御神霊を奉遷し、太鼓を先導とする長い行列が各町内を巡行する「お旅神事」だ、とあります。観光協会も、3基の神輿に御神霊を奉遷して、荒馬14騎と稚児行列を先導に町内を巡幸する「お旅神事」だ、と書いています。稚児行列は、色鮮やかな装束の子どもたちが町を歩く行列として、公式ホームページが紹介しています。
つづく。次回は、屋台の乗せ物と彫刻・堆朱を取り上げます。
出典
出典・開示
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