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村上の出羽街道と大沢峠の石畳。城下から庄内へ続いた古い道

村上城下から北へ、庄内へ続いた出羽街道。蒲萄から大沢の間には、当時の道のまま石畳の山道が残っています。大沢峠の石畳の言い伝えや、芭蕉と曽良が泊まった中村まで、市のページと計画書からたどります。

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仮の図です

村上の城下から北へ、庄内へ向かう道が出羽街道です。今では大部分が舗装路になりましたが、蒲萄[ぶどう]から大沢の間には、当時の道のまま石畳の残る山道があります。

この記事では、村上市の観光ページ「出羽街道」と、市の「歴史的風致維持向上計画(第2期)」「文化財保存活用地域計画」をもとに、出羽街道と大沢峠の石畳を紹介します。

村上城下から庄内へ

市の観光ページによると、出羽街道は村上城下を起点に北上し、庄内領鶴岡へ通じる街道です。途中、猿沢・塩野町を通り、蒲萄峠を越え、北中・小俣を経て庄内領へと続きます。古くから軍用道として使われ、村上と以北を結ぶ重要な道でした。ただし物品の往来はそれほど多くなく、越後からは出羽三山詣での旅人が中心だったと書かれています。

計画によると、正保2(1645)年の『越後国絵図』では、街道の起点は村上町の辻の札(今の大町交差点付近)で、国境の堀切峠までは総距離10里10町53間とされています。越後と庄内を結ぶ交通路は中世の記録から確認され、江戸時代以降に整備されたものだそうです。

街道沿いには宿場が設けられました。猿沢と塩野町は宿場で、塩野町には天明8(1788)年に米沢藩の代官所が置かれました。計画は、人や馬の行き来が盛んになるなかで、庄内から大須戸能などの芸能も伝えられた、と記しています。大須戸能は村上の大須戸能で紹介しています。

大沢峠に残る石畳

市の観光ページは、蒲萄から大沢の間について、幅の狭い道や石畳の道など、当時の道のまま、道路改良もされずに残っていると紹介しています。大沢地内の峠の石畳は「日本の歩きたくなる道500選」に選ばれています。

計画によると、蒲萄村から蒲萄峠に入って漆山神社を過ぎると、出羽街道の中で最もよく旧状を残している大沢峠に至ります。道は地形によって広い所と狭い所がありますが、幅約2〜4mの土道で、切通しや石畳も見られます。石畳は約2.5kmの間に断続的に5か所、計300mほど残っていて、短い所は敷石8枚分ほど、長い所は40〜100mも続くそうです。

蒲萄峠から大沢峠の山中は赤土で、雨の日には足元が滑るため、石畳は当時の役人が近くの石山から運んで並べたと伝えられています。

市の文化財保存活用地域計画も、旧出羽道石畳を、山北地域の大沢から朝日地域の蒲萄にかけての旧道に残る石畳として取り上げています。大沢峠を越える区間約2.5kmの間に、江戸時代以前に敷かれた石畳が断続的に残っている、という説明です。

大沢峠の途中には、道幅が狭く、道の脇が崖になっている所があります。山賊が旅の座頭を襲い、金品を奪って突き落としたという伝説から、「座頭落とし」と呼ばれている、と計画は紹介しています。

芭蕉と曽良が泊まった中村

峠を下りると大沢村、大毎[おおごと]村を経て、街道の分岐点の中村(今の北中)に着きます。計画によると、中村から直進すれば出羽街道、西へ折れると出羽街道浜通りで、三方からの道の分かれ目でした。そのため中村で泊まる旅人も多く、元禄2(1689)年に庄内から越後に入った松尾芭蕉と弟子の曽良も、中村で宿をとっています。

市の観光ページも、奥の細道で松尾芭蕉が庄内から村上に向かった際に、出羽街道を通ったことが知られている、と書いています。北中芭蕉公園は、芭蕉が奥の細道を巡遊してちょうど300年後の平成元年8月に開園しました。

街道沿いのほかの記事

蒲萄峠の途中にある漆山神社は村上の歴史 第11回で、出羽街道沿いの中継の集落に湧く四十手清水は村上の自然 第9回で紹介しています。

この記事は、2026年10月18日に確認した村上市のページと計画書をもとにしています。

出典

出典・開示

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出典は、本文の最後の「出典」にまとめています。

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