ホーム 知る

村上の浦田山古墳群と「磐舟柵」。6世紀の古墳と、日本書紀に出てくる岩船

村上の浦田山丘陵には、6世紀の浦田山古墳群があります。北陸や佐渡と共通する石室、朝鮮半島を含む広い地域との交流があったと考えられていること、日本書紀の「磐舟柵」まで、市の計画と概要から古代の村上をたどります。

知る歴史 提供なし(自主取材)

仮の図です

村上の歴史というと、城下町や武家住宅、まつりを思い浮かべる人が多いと思います。けれども市の資料をたどると、もっと古い時代の話も出てきます。そのひとつが、村上地域の浦田山丘陵にある浦田山古墳群です。

この記事では、市の「村上市の概要」と、令和8年3月19日に主務大臣の認定を受けた「村上市歴史的風致維持向上計画(第2期)」をもとに、古墳時代から7世紀ごろの村上を紹介します。

浦田山丘陵に集まる古墳時代の遺跡

市の計画によると、弥生時代から古墳時代の遺跡は、主に村上地域の旧岩船潟の周りにある微高地や自然堤防の上など、低い土地で見つかっています。近年は、公共工事などに伴う発掘調査で、市内各地のようすが少しずつ分かってきているそうです。

古墳時代の遺跡は、村上地域と神林地域に多く見られます。中でも、村上地域の浦田山丘陵の上と、丘陵の周りの旧岩船潟の縁に、遺跡が集まっていると計画は記しています。

浦田山丘陵の上にあるのが、計画で「磐舟[いわふね]浦田山古墳群」と書かれている古墳群です。6世紀の古墳で、石室の造り方から、北陸地方や佐渡地方の古墳との共通性が指摘されています。

広い地域との交流

市の概要は、6世紀には浦田山古墳群の発見から、朝鮮半島を含む広い地域との文化的交流があったと考えられている、と説明しています。

古墳時代より前にも、外とのつながりをうかがわせる発見があります。計画によると、神林地域の山居山[さんきょやま]丘陵の上にある山元遺跡[やまもといせき]は、日本海側で最も北にある高地性環濠集落です。墓に納められた品として、筒形銅製品やガラス小玉など、西日本からの影響がうかがえるものが出土しています。

なお市の概要には、今からおよそ2万8千年前の後期旧石器時代の石器が見つかっていることも書かれています。

日本書紀に出てくる「磐舟柵」

浦田山丘陵のそばの岩船は、地名そのものも古くから記録に残っています。計画によると、「岩船」の地名が初めて出てくるのは、『日本書紀』の大化4(648)年の項にある「磐舟柵[いわふねのき]」です。その後も、『日本書紀』や『続日本紀』に「磐舟柵」の記事がたびたび出てきます。

計画の別の箇所では、『日本書紀』に、大化4年に蝦夷に対する前線基地として「磐舟柵」が設置されたと記されている、と紹介されています。また、『日本書紀』によれば斉明4(658)年に阿倍比羅夫が軍船180隻を率いて蝦夷に遠征したとされ、そのときの軍勢が「磐舟柵」を前線基地としたとする説がある、とも書かれています。

ただし、磐舟柵がどこにあったのかは分かっていません。計画は、磐舟柵の所在地を浦田山丘陵とする説があるものの、確定はできないとしています。そのうえで、磐舟浦田山古墳群があることなどから、7世紀以前から大和朝廷の勢力がこの地方にも及んでいたと推測される、と記しています。

岩船の話とあわせて

計画には、饒速日命が「磐樟の舟」に乗ってこの浜に着いたことから岩船と呼ばれるようになった、という町の言い伝えも紹介されています。その神様が祀られている石船神社は、岩船大祭。石船神社とお船様「明神丸」で紹介しています。港のその後の歩みは村上の歴史 第8回で、山あいの奥三面で見つかった遺跡は村上の歴史 第10回で取り上げています。

この記事は、2026年10月18日に確認した村上市のページと計画書をもとにしています。

出典

出典・開示

開示区分 提供なし(自主取材)

出典は、本文の最後の「出典」にまとめています。

村上の見どころを、ほかにも見てみませんか

BASEショップ: 準備中

← トップへ