村上の歴史 第8回。岩船港の沿革、県北の基幹港の歩み
村上の岩船港。寛政9年の絵図に初見があり、石川河口の築土から防波堤・岸壁、粟島への航路まで、県がまとめる沿革で県北の基幹港の歩みをたどります。
知る歴史 提供なし(自主取材)
第7回で見た北前船寄港地・船主集落の話では、石川[いしかわ]河口の岩船港が、村上の海運の拠点のひとつとして挙げられていました。新潟県の案内は、岩船港を「県北の基幹港として重要性が増大している」と結んでいます。 文書に残る整備のあとを、県の村上地域振興局がまとめる沿革に沿って見ていきます。
岩船麩や岩船米など、港町の味については、すでに公開した港町・岩船の案内もあわせてどうぞ。この回では、港そのものの歩みに絞ります。
文書に残る「初見」は、寛政9年
県の沿革によると、岩船港の「初見」は、寛政9(1797)年の「岩船町塩除築土絵図」の裏書に記されている、とあります。この年、村上藩が石川河口に築土し、船の難破と、石川を逆流する汐を防ごうとしたときの記録です。
ここでの「初見」は、文書に初めて出てくる年であって、港ができた年とは限りません。県のページは開港年を書いていません。それ以前の歴史は、この県ページでは確認できません。県は、岩船にとって港の整備が船だけでなく農民にも欠かせない問題だった「ことがうかがえる」、と書いています。
明治初期の出入りと、背後地域への玄関
明治に入っても港としての機能は不備で、遭難により積荷の塩や米などが流失したり、荒天で汐が石川を逆流して農作物が被害を受けたりした、と県は続けます。一方で諸船の出入りは活発で、明治6年9月の入港実績は70隻を数えた、とのことです。
明治12年の諸営業人名取調書では、岩船港によって生活を支える住民の数として、戸数615、船持115、魚類商50、魚売36などがあり、海産物は小国、米沢方面にまで送られ、背後地域の重要な玄関口となっていた、と県は記しています。
防波堤と漂砂、昭和の対策
本格的な港湾施設の整備は、大正4年に県議会の議決を得て、翌年5月から石川右岸に沿った防波堤の建設が始まった、とあります。漂砂のため港内の埋没が著しく、昭和2年に工事を一時中止して漂砂の移動状況を調査。漂砂は北側沿岸方向から流入すると分かり、昭和7年から工事を再開して北防砂堤を建設し、港内の水深維持のため浚渫[しゅんせつ]を行うことにした、というのが県の説明です。
その後の港湾施設の建設も、漂砂による港内埋没の防止対策を抜きにしては考えられなかった、と県は書いています。
平成の岸壁と、粟島への航路
平成に入ると、平成7年秋に水深7.5メートルの耐震構造岸壁、平成11年秋に水深5.5メートル岸壁が完成し、セメント・硫酸基地も稼働している、と県は記しています(ページの更新は2024年7月26日時点)。県の表現では「現在本港は、商・港として機能して」おり、粟島とのあいだにフェリー型船舶および高速船が就航し、粟島の生活や観光航路の拠点としても大きな役割を果たしている、と結ばれます。県北の基幹港として重要性が増大している、ともあります。
2026年時点の運航状況や基地の稼働は、ここでは未確認です。出かける前の最新の案内は、県のページで確かめてください。連絡先や問い合わせ先は、この記事では書きません。掲載時点の案内です。
つづく。次回は、奥三面ダムと旧三面集落を取り上げます。
出典
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