村上の歴史 第4回。本庄繁長と永禄の籠城戦、地利無双の城地
永禄11年、本庄繁長は武田信玄の誘いに応じ上杉輝虎の軍に包囲された。地利無双の城地を頼んで凌いだが孤立し、翌年伊達・芦名の仲介で降りる。文化庁の解説でたどります。
知る歴史 提供なし(自主取材)
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村上市街を見下ろす臥牛山[がぎゅうさん]の村上城跡[むらかみじょうあと]。戦国のころ、この城は本庄氏[ほんじょうし]の本拠で、本庄城[ほんじょうじょう]とも呼ばれました。文化庁の解説が詳しく伝えるのが、本庄繁長[ほんじょう-しげなが]と、永禄11(1568)年に始まる上杉輝虎[うえすぎ-てるとら](市の案内では上杉謙信[うえすぎ-けんしん])との籠城戦[ろうじょうせん]です。
第1回では城跡の概要として触れました。第4回では、文化庁の国指定文化財等データベースの解説を中心に、繁長の動きと、籠城から降るまでの流れをたどります。籠城の長さは出典に書かれていないため、断定しません。
城を取り戻し、上杉に従ったあと
文化庁によると、天文8(1539)年、本庄房長[ほんじょう-ふさなが]は伊達・中条[なかじょう]連合軍の攻撃を受け本庄城は落城し、天文20(1551)年になって房長の子・繁長が本庄城を取り戻した、とあります。繁長は一時、上杉氏に従った、というのが同解説の書き方です。
市の案内も、戦国時代には本庄氏の本拠地として、永禄11年の上杉謙信との籠城戦など、幾たびも戦いが繰り広げられた、と記しています。上杉との関係は、この籠城戦の範囲で書きます。
永禄11年3月、反旗と包囲
文化庁の解説では、繁長は永禄11(1568)年3月、武田信玄[たけだ-しんげん]の誘いに応じ、反旗を翻して、上杉輝虎の軍に包囲された、とあります。市の案内は「上杉謙信」、文化庁は「上杉輝虎」と記していて、表記が異なります。この記事では両方の出典の言い方を併記します。
包囲された繁長は、「南方は深田洋々として湖水の如し、西は大海原、特に大河は郭をめぐり、地利無双の城地たり」とする『上杉年譜』の引用にある堅固な地利を頼んでよく凌いだ、と文化庁は書いています。引用にあるのは、深田と海と大河に囲まれた地利を頼んだ、という説明です。
孤立、仲介、そして人質
よく凌いだものの、結局孤立し、翌永禄12(1569)年2月、米沢の伊達氏[だてし]・会津の芦名氏[あしなし]の仲介で輝虎に降り、嫡子を人質として春日山[かすがやま]に送った、と文化庁は続けています。市の案内は年月の細部までは書かず、永禄11年の籠城戦があった、と要約しています。
文化庁が書いているのは、包囲の始まり(永禄11年3月)と、輝虎に降った時期(翌12年2月)までで、包囲や籠城が続いた長さそのものは書いていません。一方、村上城跡保存育英会の公式サイトには「半年間耐え抜いた末に和議」という書き方があります。これは国・県・市の資料ではない補助的な出典です。2つの書き方が並んでいるだけなので、この記事では「何か月だった」と断定しません。 日付の骨格は文化庁の解説に沿います。
東面に残る本庄氏の遺構
文化庁は、臥牛山の東面に本庄氏時代の戦国遺構である腰ぐるわや竪堀[たてぼり]、土塁、井戸跡なども良好に残っている、と記しています。天守や門はない山に、繁長の時代の地形の名残がまだ読める、というのが指定解説の趣旨のひとつです。第1回で触れたとおり、中世の遺構と近世の石垣が同じ山に混在して残る姿が、国史跡指定の理由にもつながっています。
本庄氏の治世は、天正18(1590)年末に豊臣秀吉が繁長を改易するまで続いた、と文化庁は書いています。改易後の細かな動きや、別系統の伝承は、この回では深く立ち入りません。
いまの臥牛山で読む、一場面
標高135メートルの平山城。山麓から山頂までは徒歩約20分、と市は案内しています。地図のうえでは静かな緑の山ですが、文化庁の解説を重ねると、信玄の誘い、輝虎の包囲、伊達と芦名の仲介、嫡子の人質、という永禄の一場面が立ち上がります。料金や問い合わせ先は、この記事では書きません。掲載時点の案内です。
つづく。次回は、平林城跡と色部氏を取り上げます。
出典
出典・開示
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