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村上の歴史 第2回。村上藩、堀氏から内藤氏へ続く城下の歩み

村上氏・堀氏・松平氏らが城と城下を整え、享保5年に内藤弌信が入封。以降8代・約150年、内藤氏が明治維新まで藩政を担った村上藩の歩みを公式案内でたどります。

知る歴史 提供なし(自主取材)

写真は掲載許可の確認中のため、仮の図です

第1回で見た国史跡・村上城跡[むらかみじょうあと]。建物は残っていませんが、城下の骨格は江戸時代の藩政のなかで形づくられました。**市の案内では、村上氏・堀氏・松平氏らの城主が城の改造と城下町の建設を進め、村上城は北越後[きたえちご]の中心拠点として整備された、とあります。**その後も城主は交代し、享保5(1720)年以後は内藤氏[ないとうし]が代々城主を務め、明治維新を迎えます。

近世城郭としての村上城

文化庁の解説によると、慶長3(1598)年、上杉氏の会津移封に伴い村上頼勝[むらかみ-よりかつ]が9万石で転封された、とあります。豊臣恩顧の村上家は間もなく取り潰され、元和4(1618)年、堀直竒[ほり-なおより]が10万石で村上城に入封した、とも書いています。堀氏は縄張りと作事を進め、ここに近世城郭としての村上城が完成した、というのが文化庁の説明です。

寛永19(1642)年、堀家は嗣子がなく絶家となり、正保元(1644)年に本多忠義[ほんだ-ただよし]が入城した、と文化庁は記しています。正保2(1645)年の城郭絵図には、本丸に3層の天守閣のほか渡櫓[わたるやぐら]・多門[たもん]、二の丸に5か所の櫓などが画かれ、往時の姿を偲ぶことができる、ともあります。天守のその後については、この記事では取り上げません。

城主の交代と、内藤氏の入封

この後、松平直矩[まつだいら-なおのり](結城松平)が15万石で入城し、以降、榊原政倫[さかきばら-まさとも]、本多忠孝[ほんだ-ただたか]、松平輝貞[まつだいら-てるさだ]、間部詮房[まなべ-あきふさ]の各家が続いた、と文化庁は書いています。入城の年号は、この記事では書きません。石高や家名の並びは、文化庁の詳細解説に沿っています。

**享保5(1720)年、内藤弌信[ないとう-かずのぶ]が5万石で入り、以降明治維新まで8代、150年近く続いた、と文化庁は記しています。**市の案内も、享保5年以後は内藤氏が代々城主を務め、明治維新を迎えた、と書いています。「8代・約150年」は文化庁の記述です。

内藤氏は明治維新まで城主を務めました。城下町の四大要素——城跡・武家屋敷・町屋・寺町——がいまも村上に残る、というのは観光協会の城下町案内の要点です。町並みや武家屋敷の見どころは、別の記事で取り上げます。

お城山から、藩の時間を想像する

臥牛山[がぎゅうさん]の石垣と山下の町並みは、藩主が交代しながらも北越後の拠点として整えられてきた時間の積み重ねです。堀氏の時代に近世城郭のかたちが整い、その後の城主交代を経て、内藤氏の約150年で明治維新を迎えた——というのが、市と文化庁の案内から読める大きな流れです。料金や問い合わせ先は、この記事では書きません。掲載時点の案内です。

つづく。次回は、戊辰戦争と村上城下を取り上げます。

出典

出典・開示

開示区分 提供なし(自主取材)

出典は、本文の最後の「出典」にまとめています。

シリーズの記事 村上の歴史

  1. 村上の歴史 第1回。国史跡・村上城跡、お城山に残る戦国と江戸
  2. 村上の歴史 第2回。村上藩、堀氏から内藤氏へ続く城下の歩みいま読んでいる記事
  3. 村上の歴史 第3回。戊辰戦争と村上城下、戦火を逃れた町並み

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