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村上の歴史 第3回。戊辰戦争と村上城下、戦火を逃れた町並み

慶応4年、奥羽越列藩同盟に加わった村上藩。落城と開城の両方の記述が市資料にあり、城下では戦闘がなく町並みが残った。鳥居三十郎と抗戦派の動きを公式案内でたどります。

知る歴史 提供なし(自主取材)

写真は掲載許可の確認中のため、仮の図です

第2回で見た村上藩[むらかみはん]は、内藤氏[ないとうし]のもとで明治維新を迎えます。その直前、幕末の戊辰戦争[ぼしんせんそう]で村上藩は大きな分かれ目に立ちました。**市の歴史的風致維持向上計画によると、村上藩は奥羽越列藩同盟[おううえつれっぱんどうめい]に加盟し、旧幕府軍として戦闘に参加した、とあります。**いま村上城下に古い町並みが残ることも、このときの経緯と結びついて語られています。

慶応4年8月、村上城をめぐる記述

市の計画は、慶応4(1868)年8月、新政府軍の攻撃を受けて村上城は落城した、と書いています。同じ計画の人物紹介では、新政府軍の村上城進攻を前に藩内で抗戦派と帰順派が対立し、家老・鳥居三十郎[とりい-さんじゅうろう]が抗戦派藩士を率いて庄内国境[しょうないこっきょう]へ退去したあと、村上城は城下での戦闘が行われずに開城した、ともあります。

「落城」と「開城」が同じ市資料のなかに並ぶため、この記事ではどちら一方に断定しません。共通して読めるのは、城下での戦闘が行われなかった、という点です。市の計画は、そのために城下町の町並みはそのままの形で残された、と記しています。

鳥居三十郎と、抗戦派の動き

県の2021年更新のページ「むらかみ・いわふね珍風景」では、戊辰戦争時(1868年)に村上藩士・鳥居三十郎が着ていた陣羽織[じんばおり]が、山形県鶴岡市の鼠ヶ関[ねずがせき]公民館に残る、と紹介しています。当時の村上藩は、新政府軍が間近に迫るなかでも抗戦か帰順かで藩論を統一できなかった、と県は書いています。

三十郎は藩内で最年少の家老で、抗戦派藩士を率いて村上を脱出し、北へ向かって庄内藩兵と合流した、というのが県の説明です。人数について、市の歴史的風致維持向上計画の人物紹介、第2期計画(暫定版)の人物紹介、県ページは「約200」としています。一方、第2期計画(暫定版)の城下町の変遷の段落には「約100名」とも書かれています。人数は出典で食い違うため、ここでは断定しません。

県によると、三十郎たちは鼠ヶ関付近に陣を敷き、約1か月にわたって新政府軍と戦い、のちに降伏した、とあります。市の計画も、庄内藩の降伏とともに村上藩兵も降伏した、と書いています。その後の処分や最期の細部は、この記事では深く立ち入りません。

城下は残り、本丸居館の記述も

市の第2期計画(暫定版)には、抗戦派が城下を脱出する際の混乱のなかで村上城本丸居館[ほんまるきょかん]は全焼したが、村上城下は戦火を逃れ無傷で残った、という記述もあります。市の歴史的風致維持向上計画が強調するのは、城下での戦闘がなく町並みが残った、という点です。建物のないお城山と、いまも続く城下の通り——その対比の一端が、戊辰の記録のなかにもあります。

元治元(1864)年に隠居して養子の内藤信民[ないとう-のぶたみ]に家督を譲ったあとも藩政を指導した、内藤信親[ないとう-のぶちか](のち信思[のぶもと])については、市の計画が、戊辰戦争で村上藩が奥羽越列藩同盟に加わったことから、戦争後の明治元年に新政府から罪を問われ謹慎処分を受けた、と書いています。藩主や藩士の最期は、この記事では取り上げません。

いまの町並みへつながる時間

臥牛山[がぎゅうさん]に天守はなく、山下には城下町の骨格が残ります。市の計画が言うように、城下での戦闘がなかったことが、いま見える町並みの連続性のひとつの説明になっています。なお、市の同じ計画には、山北の小俣集落が戊辰戦争で戦場となった、という記述もあります。この記事で「戦火を逃れた」と書いているのは、村上城下のことです。料金や問い合わせ先は、この記事では書きません。掲載時点の案内です。

つづく。次回は、本庄繁長と永禄の籠城戦を取り上げます。

出典

出典・開示

開示区分 提供なし(自主取材)

出典は、本文の最後の「出典」にまとめています。

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  1. 村上の歴史 第1回。国史跡・村上城跡、お城山に残る戦国と江戸
  2. 村上の歴史 第2回。村上藩、堀氏から内藤氏へ続く城下の歩み
  3. 村上の歴史 第3回。戊辰戦争と村上城下、戦火を逃れた町並みいま読んでいる記事

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